——一人でやった方が早い、と思っていた
みなさん、初めまして。
順天堂大学 国際教養学部3年、梅原ゼミナール所属の加藤 未樹也(かとう みきや)です。
どこかに出かけるとき、何かに時間を使うとき。
「この時間バイトしてたら、いくらもらえてたかな」
そう考えたことはありませんか。
僕はありました。というより、それしか考えていませんでした。
友達に課題の代行を頼んだときは、スターバックスのギフト券を送りました。頼み事をするときに「1000円払うから」と言ったこともあります。
人の時間をただで使うのが嫌だったんです。それが礼儀だと思っていました。
今でも、その感覚自体が間違っていたとは思っていません。
ただ、僕はそれ以外の測り方を、たぶん一つも持っていませんでした。
1時間の値段
お金は、日本なら1円、10円、100円で表せます。分かりやすい。
時間も同じように測られます。アルバイトをすれば、1時間あたりいくらという値段が決まっている。社会人になって月に20日ほど働いたとして、月給を時間で割ってみても、実はそんなに変わらないと思います。
つまり、僕らの1時間には値札がついています。少なくとも、そう考えることはできる。
でも、本当にその1時間は、その値段でしか測れないのでしょうか。
経済学の本を読んでいたときに、こんな実験が紹介されていました。
ある保育園で、お迎えに遅れる親が多かったので、罰金制度を導入したそうです。遅れた分だけお金を払う、という仕組みです。
結果はどうなったか。
遅刻は、増えました。
罰金がなかったとき、親を止めていたのは「遅れたら保育士さんに申し訳ない」という気持ちでした。ところが値段がついた瞬間、それは「払えば遅れてもいい」という取引に変わってしまったのです。
これを読んだとき、僕は自分のことだと思いました。
友達に「1000円払うから」と言ったとき、僕は同じことをしていた。値段をつけることで、そこにあったはずの何かを、自分の手で消していたのかもしれません。
梅原先生は、ブログにこう書いています。
最近、よく学生に聞かれます。「それ、やったほうが得ですか?」「自分にメリットあります?」「それ、やるべきですか?」とても合理的です。むしろ、それが普通なのかもしれません。でも、その問いだけで判断し続けると、見えなくなるものがあると思っています。
(『なぜ、共創実践ゼミをやるのか。』より)
この学生は、たぶん僕のことです。
一匹狼だった
前提として、僕はずっと一匹狼でした。
結果さえ残せばいいでしょ、と思ってきました。負けず嫌いで、自分が勝つためなら誰かを蹴落としてでも這い上がろうとする気持ちは、正直に言えば今もあります。勝負の局面では、それでいいと思っています。
ただ、なぜ一人でやろうとするのかを考えると、行き着くのは「人を疑っていたから」です。
僕は人を、まず懐疑の目で見るところから入っていました。この人は本当にやってくれるのか。任せて、返ってこなかったらどうするのか。そう考えると、任せるより自分でやった方が確実だ、という結論にしかなりません。
秋にある大学祭「順麗祭」でも、最初はそうでした。
副実行委員長になった当初、ほとんどのことを自分でやっていました。人に渡していたのは、日程調整のような、失敗しても取り返しがつく簡単なタスクだけです。渡しているつもりで、実は何も渡していませんでした。
その考え方が変わり始めたのは、梅原ゼミに入ってからです。
梅原ゼミには10ヶ条があります。その1番目は「この場はみんなで作る」。先生が授業を与えるのではなく、全員が何かを持ち寄ることで初めて場が成立する、という意味です。3番目には「関係性を引き受ける」とあります。喜びも悲しみも、他人との関係を自分のこととして受け取る。
最初は、正直きれいごとに聞こえました。
でも、この半年で完全に崩されました。
夏に、先生から「絶対に失敗する型」という話を聞いたことがあります。その1番目に挙げられていたのが、「一人で突っ走る」でした。
聞いた瞬間、自分のことだと思いました。
ぶつかった時間が、自分を成長させた

順麗祭の実行委員は70人ほどいます。僕の立ち位置は、現場で手を動かす側というより、組織を回す側にあります。
春に、それまで5つあった局を4つに組み直しました。締切が最大で1か月遅れる。決めたものが放置される。仕事が特定の人に貼りついて、他の人が触れない。どこに頼んでいいか分からない。そういう状態だったからです。
その後、週に一度の全体会とチーフ制を入れて、連絡の経路を一本にまとめました。他大学の学祭にも話を聞きに行き、実際に見に行って、自分たちに何が足りないかを確かめました。
うまくいっていないことの方が、圧倒的に多いです。
新しい仕組みを出せば反発が来ます。前から体制を作ってきた先輩からは、長文で反論が来ました。役職が形だけになる。階層が分かりにくい。負担が増える。そういう内容でした。
自分としては考えて出した案だったので、正直、面食らいました。
でも話をしていくうちに、その人が見ていたのは、僕が見ていなかった側だと分かりました。
僕が出した案を、後輩に正面から止められて撤回したこともあります。実行委員長からは、こう言われたこともありました。
「おれ作ってほしいって言ってないもん」
この3つは、同じ形をしています。
どれも、相手に確かめる前に、自分で決めて出していました。
最近、考えるようになったことがあります。
僕は、局を任せている後輩たちのことを、正直「頼りない」と思ってしまうことがあります。
ただ、それを相手のせいにして終わらせるのは違うな、と思うようになりました。
頼りないと感じてしまうのは本当です。でもそれは同時に、僕がその2人を活かして、組織を進める原動力を引き出せていないということでもある。自分の能力の話でもあります。
1年前の僕なら、こうは考えなかったと思います。「頼りない」で止めて、相手の能力の問題として片付けて、結局自分でやっていたと思います。
そして、こう考えられるようになったのも、僕ひとりの力ではありませんでした。
正直、面倒だなと思ってしまう相手もいます。でも、その人が異論をぶつけてくれるから、僕はこうやって考えている。実行委員長に誘われていなければ、そもそもこの場所に立つ機会もありませんでした。
みんなに支えられているんだな、と実感しました。
こういう時間を、以前の僕は「割に合わない」と思っていたはずです。感謝されるとも限らないし、自分でやった方が早い、とも何度も思いました。
でも、反論をくれた先輩も、僕の案を止めてくれた後輩も、放っておけば何も言ってきませんでした。わざわざ言ってきたのは、それぞれが本気で委員会をよくしたいと思っていたからです。
もし僕が一人で「効率よく」進めていたら、誰も何も言わないまま、うまくいっていない組織がそのまま続いていたと思います。
いまは、少しずつ局長に仕事を振れるようになりました。委員会の懇談会の企画では、リーダーを立てて、その子たちに裁量ごと渡しています。
一匹狼だった自分が、自分のところに来てくれる人を本気で応援できるようになった。一緒に成長したいと思える。
この変化は、自分でも意外でした。
ゼミの名前は「共創実践ゼミ」といいます。先生はブログで、共創はきれいなものではない、ぐちゃぐちゃで、ズレて、ぶつかって、壊れる、でもその中でしか自分は見えてこない、と書いていました。
半年やってみて、その通りだと思います。
本気でぶつかって、考えて、動いた時間が、この半年で一番、自分を成長させました。時給に直せば0円になります。それでも、そこで受け取ったものは確かにあります。
苦手なことを、人に押し付けて逃げようとしていた
先日、組織のミーティングで先生に相談したことがあります。
僕はこう言いました。
「みんなに怖いと思われている。だから僕が一対一で聞いても、本音は出ないんじゃないか。自分以外の人が聞いた方がいいと思う」
実際、僕は人にきつく当たってしまうことがあります。だからこれは、組織のための合理的な提案のつもりでした。
先生の答えは、こうでした。
「それはみきやが聞きたいと思っているのだから、みきやが聞くべきだ。怖いから言いづらいと思う、と言っている時点で無理。自分が変わると宣言して、うるさかったら言ってくれと差し出すところまでやれ。その覚悟に人が乗ってくる」
言われて、黙るしかありませんでした。
僕がやっていたのは、組織のための判断ではありませんでした。自分が苦手だと感じていることを人に押し付けて、そこから逃げようとしていただけです。
しかも、それに「みんなのため」という顔をつけていました。
一匹狼だった頃の僕なら、ここで「じゃあ全部自分でやる」に振り切っていたと思います。実際、ずっとそうしてきました。
でも先生が言っていたのは、「自分でやれ」ではありませんでした。
自分が変わると宣言して、うるさかったら言ってくれと差し出せ。つまり、一人で背負うことでも、人に押し付けることでもなく、自分が変わろうとしているところを人に見せろ、ということです。
正直、これは今もうまくできていません。
ただ、やってみて思っているのは、自分が変わろうと動き続けていると、その途中で新しい発見があるんじゃないか、ということです。
止まって考えているだけでは、たぶん一つも出てきません。人に渡して終わりにしていたら、なおさら出てきません。動いている自分を人に見せて、そこで返ってくるものがあって、初めて次が見える。
いまはそう思っています。
受け取っていたのは、順麗祭だけじゃなかった
そうやって順麗祭のことを考えているうちに、気づいたことがあります。
これは、この半年に始まった話ではありませんでした。
僕は夏、遊園地の中にある飲食店で働いています。その店の社長とは昨年から付き合いがあって、ずっとよくしてもらっています。
今年もそこで働いているのは、条件がいいからではなく、よくしてもらっているからです。
普通は条件で働く場所を選びます。それでも今も続けているのは、自分がここまでのものを受け取ってきたんだな、と気づけているからだと思います。
面白いのは、その「受け取ってきた」は、数字では出てこないことです。
もう一人、2年の春に出会って、それからずっとお世話になっている方がいます。僕がインターンの組織を立ち上げたときに助けてくれて、今も面倒を見てくれている人です。
正直に書くと、一時期は「搾取されているのかな」と思ったこともあります。自分の働きに対して、返ってくるものは釣り合っているのか、と。
でも、その見方が変わったきっかけは、はっきりしています。
春に面談をしたとき、「インターン統括は任せられない」と言われている状態から、研修を任せてもらうところまで話を戻すことができました。疑いながら距離を取っていたら、絶対に起きなかったことです。
うまく言語化できないのですが、信じてついていった先で、本当に色々なことを得ました。仕事の進め方も、人との向き合い方も、その人から教わっています。もし僕があのとき「これは割に合うのか」と計算し続けていたら、たぶん何一つ受け取れていません。
疑うのは自分を守る行為です。ただ、守りに入っている間、こちらから受け取れるものは何もない。
順麗祭で人に渡せなかったのも、この人を疑っていたのも、根っこは同じでした。
疑っているから、人に渡せない。疑っているから、人から受け取れない。閉じている方向が違うだけで、やっていることは一つです。
人を信じるときに、もう一つ大事なことがあると思っています。
僕は自分の中に見たい理想像を先に描いて、その人がそこに当てはまるかを見ていました。しかも、その判断に使っていたのは、関わりの中で見えているごく一部分でしかありません。会って話す何時間かと、一緒に仕事をした何度かと、それだけです。その一部分で、その人を評価していました。
信じるというのは、たぶん、都合のいい像に相手を当てはめることではありません。これから必要なのは、その人の見えていない部分や、自分が見ようとしてこなかった部分にも、意識して目を向けることだと思っています。
時間は、減るものだと思っていた
僕は時間を、減っていくものだと思っていました。
時給の計算では、働いた時間はその分だけ自分から出ていって、代わりにお金が入ってきます。1時間使えば1時間減る。
実際、減ってはいます。この半年で使った時間は戻ってきません。
ただ、その1時間で受け取ったものは、時給という形で出てこないだけで、確実にあります。
梅原先生に、ゼミが始まった頃「困ったときに助けてくれる人の数が、その人の技量だ」と言われました。
正直に書くと、春の時点で僕はこの言葉を、意味づけとして使っていました。
大学祭も土日の仕事も、自分のやりたいことと直接はつながらない。でもこの言葉に照らせば意味がある、と自分に説明していたんです。やっていることの価値を、後から理屈で接続していました。
半年経って、意味づけではなくなりました。
技量というのは普通、何ができるかで測ります。スキル、実績、稼いだ金額。全部、自分の中にあるものです。でも先生は、自分の外にいる人の数で測ると言っている。
だとしたらその技量は、人と一緒に過ごした時間の分しか増えません。
先生からは、こんなことも言われました。
「圧倒的に動け。人の時間をもらって、時間を使って、そいつらと一緒に過ごした時間が単純に伸びていく。それがエネルギーになる」
減るはずのものが、伸びる、と言っています。
ここまで書いてきて、僕なりに一つ言えることがあります。
時給という数字が間違っているわけではありません。あれは労働に値段をつけるために作られた道具で、人との関係にまで当てるようにはできていない。 それを人にまで当てていたのが、去年までの僕でした。

それがどれくらいのものかは、まだ分からない
自分のキャパシティには限りがあります。全部は無理かもしれません。
それでも、誰かと一緒に何かをやり遂げるというのは、ものすごいパワーを持っていることなんじゃないか、と思い始めています。
ただ、まだ何かをし始めた段階なので、それがどんなパワーなのかは分かりません。めちゃくちゃすごいものなのかもしれないし、意外とそんなにすごくないのかもしれない。
でもひとつ言えるのは、面白そうだ、ということです。
そして、まだ分かっていないことが、もう一つあります。
時給では測れない、と言うのは簡単です。では、何で測るのか。
それを、僕はまだ持っていません。
この半年で分かったのは、測り方を持たないまま「時給じゃない」と言うだけでは、ただ抱えすぎるだけだということでした。
だから、これから探していきたいことが二つあります。
一つは、一緒にやることのパワーは実際どれくらいのもので、それは何によって生まれるのか。先生は「一緒に過ごした時間が伸びていく」と言いました。では、伸びる時間と、ただ消える時間の違いはどこにあるのか。同じように誰かと過ごしていても、後から何も残らないこともあるはずで、その差が何なのかを知りたい。
もう一つは、自分の時間を何を基準に配るのか。
ゼミの10ヶ条には「わからなさにとどまる」という条があります。モヤモヤに耐えて、すぐに結論を出さない、という意味です。
いま僕は、たぶんそこにいます。
最後に。
もしあなたが今、「これをやって何になるんだろう」と思いながら、誰かと何かをやっているなら。
その時間で受け取っているものは、たぶん、一人でやっていたら受け取れなかったものです。


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